こんな話をしていると、ここで奥様からのご指摘が。
「そら、怪しい人に対して怖いんだから、怪訝な顔をわざわざしないでしょ。そういうのは、
<近所の公園でこんな不審者がいるので気をつけてください。>
て回覧メールが回ってくるんだからね。被害者が出てなくても、こんな人がいますよ〜て通報されたら、その地域中に情報が回って
<公園で寝袋で寝てる、絵を描いているらしいあの人か> てなるよ。」
回覧メールの存在にそこで初めて聞き、なるほど〜〜〜〜と町のネットワークの凄さを知った。そうやって、警戒するのね。そして、私は警戒されかねないのね。。。
ということで、ご指摘いただいてからは、大衆の通勤時間までには撤退することにしたのだった。
こんな感じで、手料理を頂きながら、説法をもらうような時間を過ごす。その度に私の常識的行動を支えてくれるのだった。
お金で絵を買ってくれていたら、手に入らなかった時間。とっても大切な時間。
毎度、付加価値が生まれ、次なる作品への構想へとつながっている。
次回、「家なきこの終焉と何のために家なきこをしたのか?を知る」
つづく。
↓↓↓このマガジンで何度かご紹介しているゴッドハンドの鍼灸接骨院はこちら。私の作品も飾っていただいております。
#10 習慣を壊すことで、リセットされた視点
家なき子は、当初の予定から大幅に繰り上げて、僅か1ヶ月で終えることになった。終えた理由は、目的を達成したからだった。なぜこのような生活をしたのか?家あり子になってから分かることが多々あった。この1ヶ月で様々でな視点の変化、体調の変化があったので、総括を綴りこの章を終えようと思う。
家なきこを始めて大きな変化は
「規則的な生活からの解放」がだった。
その日その日で寝床を決め、絵をただ描く。
夜中に目が覚めることもあれば、お昼近くまで公園で日向ぼっこをする、
かつて起きたらすぐに歯を磨く習慣も家なきこにはない。
前回#9で書いた通り、トイレさえもおむつ化しようかと考える。
強制的に習慣をぶっ壊したのだった。
風景の見え方が変わる。
常に寝床候補を探すので、公園が目に止まると横になれるベンチか?トイレは清潔か?トイレが使えないなら、直ぐ近くにコンビニはあるか?を無意識にチェックしていた。
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ベンチで寝るといえば、最近観た映画「PLAN75」でもベンチで人が寝ない対策として、市役所の担当者が様々な居心地の悪い手すりを試す様子が描かれていた。まさにベンチで寝たい当事者からすると都内の居心地の悪さたるや。手すりつきベンチの多さに気づく。
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住宅街の公園であれば、比較的フラットなベンチが多くなり、アスレチックのハンモックやすべり台で寝られるスポットがある。
幾つか候補をGoogle mapのお気にりに登録しておく。寝床公園にハートマークがつくのは何とも面白いmapだ。
雨の日の対策
ネットカフェに泊まってみた。
が、最悪だった。自然の中で眠った歓喜体験とのコントラストが激しく、電磁波だらけの何十個ものPCに囲まれては眠れない。
なぜ、ネットカフェはあんなにも空気が澱んでいるのだろうか?
暗闇の屋外でも公園の方が安全だと思った。
そして、赤坂に住む友人宅に泊まらせてもらうこともあった。
きっかけは、旅行で4泊する間にペットを世話してほしいという依頼だった。
その期間に制作しようと画材を持ち込んで滞在したのだが、人生初のワンちゃんとインコちゃんとの生活で知ったのは、動物たちの想像以上の存在感。独りになることは困難で結局描けなかった。
しかしながら、近所の六本木東京ミッドタウンのお庭でセレブ主婦たちに並んでランチしながらブログを書くという、家なき子らしからぬ余暇が面白かった。
定住しないと体が膨らむ
体調の変化では、膨らむことが分かった。
外で眠ると警戒が溶けないから、睡眠が浅く日中も眠い。
睡眠が浅いと食欲が増し、集中力が低下する。
すると注意力散漫で普段しないミスを起こす。
一番の危機は、寝袋を電車の網棚に忘れたことだった。
ヤバイ!!今日の寝床がない!!!!!
必死で駅員さんに捜索を依頼した。すぐに見つかり安堵したが
この集中力の欠如はまずい、と思った。
そして、今年は梅雨入りが前倒ししているのか雨の日が続き湿度が高く、体が浮腫み、ぶくぶくと水を吸っていった。足も腕もパンパンだ。
さらに、常に着替えや画材を詰めた10キロ近くのリュックを背負うので、肩周りのガタイがよくなった。
絵との価値交換でお世話になっている接骨院で、体調の悪さ、激太りに驚かれる。
同じく絵との価値交換で通うピラティスレッスンでは、インストラクターから
「あなたの体はバックパッカー生活には明らかに向いてない。向いているのは、色黒で艶やかな肌をしている。」と言われた。
色白で敏感肌、水を溜めやすい私の体に野宿は向いていない、、おっしゃる通りだった。
しかし、体が悲鳴を上げてでも得られた体験、リセットされた視点、感覚は大きかった。
かつての社会人生活が自動最適化に見える
これまでの習慣がリセットされると、以前の生活が如何に自動化され、やりたいかの有無を無視して、生きているかを思い知った。
逆に、何かを学習したいのなら、習慣化すれば自動的にやれるようになると言うアレだった。
冷蔵庫があるからなんとなく昨日食べたかったものを今も食べなければならない、ベッドがあるからその上で寝なければならない、水回りを掃除しなくては汚れて気持ち悪いからやらなくてはならない、近くのOKストアの焼き芋が美味しいので買い物はそこでしなければならない。
人は1日で9千回の決断をしているそうだが、その決断は家の立地や様式によって選択肢は相当限られた中で行なっている。せいぜい、2択くらいなのではないか。
食べるか食べないか、スーパーかコンビニか、ウォーキングコースは河川敷か公園か。
これが安定した生活であり、いちいち無限の選択肢の中で決断を迫られていたら、それこそ、企業人として生きる時、仕事の決断スペースがなくなってしまう。
ごく自然なことだと思う。スティーブ・ジョブズが同じ洋服を何セットも買い洋服選びの機会を削いで、仕事のみに集中した。ということだと思う。
一方私は過渡期で、人生反転後のアートを生み出す立場になる上では社会人としての生活様式を全て捨て去り、ゼロから自分の心から望む生活様式を構築する必要があった。勤めていた時の自宅には社会人の生活様式の空気が残っていたので、そこで描き続けるには無理があった。
退職から1年後にその立地を活かした自宅で個展開催することで、その家はお役御免となっていた。
そして、突然目覚めた「生活したくない!」という衝動に従った家なきこで得た自己認識と新たな視点。覚悟。
きっと重要なのは、衝動に従ってまずやることだと思う。
やらなければ、<#7トランクルームで寝てはいけない、酸欠になりますの巻>を知ることもない。
何が大切なのかを体感で受けとる
絵を描いていれば人生大満足なのだ、と生活することよりも大切なものを体感し腹落ちできた。生活するために絵を描くのではない、ということだ。
昨年の個展で、お金ではなく価値交換で絵を提案したあの時のポリシーと同じことをやっているのだな、とコレを綴りながら気づく。
常にここからズレることなく制作すれば、変なことにはならない。
(※お金は価値交換の便利ツールだと体感した今、絵の販売もしております。)
そして、家なきこは最先端の生活ではないか?と思った。
物を究極になくすと家なきこになる。そして、家事生活をなくして、やりたいことだけをやる。逆に家があっても、全てがIOTで家電が自動最適化され、家事せずにやりたいことだけに集中できる世界もある。それも最先端。
ただ、後者は、エネルギー消費量がすごいけどね。と友人が一言呟いた。
動画を見るには、家が必要という発見
家を持とうと場所を決めたら、コレまた早いこと。2時間で契約となった。
マンスリーで検索後、電話とメールで希望価格の物件が見つかり、不動産訪問もなく、あっと言う間に決まってしまった。うまくいくときはこんなにもトントン拍子で加速するものか。
ちなみに、この時は内見せずに20万円一括支払いを決断している。
後から、タバコの匂いがしたら嫌だな…と不安に襲われるも、3日後の入居が決まった。
入居してすぐにやったこと。
YouTubeを見ることだった。不思議なことに家なきこ中にYouTubeなどの動画を見る気に一切なれなかった。厳選されたやりたいことリストにランクインしなかったからだ。
そして、落ち着いた家を手にした時に、まずYouTubeを開いたのだった。要はテレビと一緒で、安住の象徴なのだと知った。
とは言え、マンスリーマンションは2ヶ月間のホテル暮らしのようなものだった。
望む環境の現実化は揺さぶりの後で。
<#8次元をトルことで新たな次元を獲得するの巻>で書いたように、自然の中で描く歓びを体感し、自分の望むアトリエはこのような自然の中なのだと認識した。
その環境が今、現実化している。
北海道のど真ん中、美瑛町での暮らしだ。
スーパーなどのある町までは、約7km。住宅街から程よく外れ、牧場、丘と森にあるセカンドハウス6棟の集落では、心から落ち着いて独りになれた。
見知らぬ土地に住むこと、物理的に人と距離を置くことがこんなにも心地の良いものかと制作に集中する。
そして、周りに外食できる場所もないので、自然と自炊する。
以前のような、生活をしたくない、冷蔵庫を避けたい衝動もない。
つまり、制作できる環境を土台にした家事ならば、OKのようだ。
望んだアトリエ環境での生活様式をつくっていく。
もし、「生活したくない衝動」を行動ではなく思考し、目的を設定していたらどうなっていただろうか?
なぜ「生活したくない!」と思うのか理由を考える。
社会人生活の匂いの残る家で描きたくないからと結論づける。
↓
ならば、 田舎で家電のない畳の部屋でひたすら描こう!
↓
物件探し
↓
習慣の感覚が残ったまま、家電なしの不便な生活を送る
これはこれなりのタイムラインがあったと思う。だが、この思考ベースの生き方では、今の私へ到達するまでに1年以上かかっていたと思う。
ある方に尋ねたことがある。
「グランドトラベラー(地面力吸収)をやる人の中でも、実際に望む現実に変わる人と変化までに時間を要する人の差は何ですか?」
「多くの人は、なりたい自分になるためにアクセルを踏みながら、ブレーキも踏んでいる。」
ここでのアクセルとは、衝動のまま生きること。ブレーキは思考だと思う。
どうやら、私は退職した時にブレーキをぶっ壊したようで、アクセル全開のまま今を生きている。
(※補足ですが、衝動の内容が社会通念や他者目線が混在したものであれば、アクセルブレーキ以前の課題となるので、行動しないです。まず社会通念をリセットします。)
ブレーキをぶっ壊すには、相当な揺さぶりを自分にかけなければ壊れないし、この揺さぶりの振り幅は相当なものだ。
でもその振り幅を行ったり来たりするうちに、中庸に行き着く。
いきなり中庸を見つけることは難しく、大きく振り子をぶん回してみるしかその振り子の中心を見つけることもできない。大胆な動きから、自身の座標を見つけ、中庸が表出するのだと思う。
あとは、その表出が新たな軸となり、自動化された生活と人間関係が待っている。その自動化に飽きたら、また大きな揺さぶりを起こす時が来るのだろう。
常に今、今を流れるように生きるのみ。
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北海道美瑛町 近所の青い池
#11絵と手料理100食交換したら思わぬことが起こった
会社員を辞めて芸術家になった。
先のことは考えずに、今、やりたいことだけをやるようにした。
貯金を切り崩す生活なので、尽きたらどうしようか。何度も不安になった。
そんな時は、
いつ死ぬか分からない。
どうせなら、貯金を使い果たしてから死のうではないか。
と立ち戻った。でもどこかで使い果たすことはないとわかっていた。
突然、家なきこをやった。
ミニマリストの究極が家なしだ。
生活の底辺を経験し、寝袋さえあればなんとかなるものだ。と
必要最小限の生活でも
やりたいことをやっていれば、心から満たされるのだと腹落ちした。
作品をつくり、誰かに見てもらうことで得る幸福感。
とりあえず、生きている。
今、生きているんだからいいではないか。
自分の展望は自分で決めた。
自分の作品たちの素晴らしさが伝わる展望が見えた。
そのように込めて作る作品にはその意識が宿るし、
その作る姿を見て、人は何かが起こる予感を察する。
そして、期待し応援してくださる。
こんな言葉を幾度かいただいた。
「自分ができないことをやっている人を応援したくなるのよ」
なるほど、自分のやりたいことを明確に表明していると
応援もしやすくなるものなのだと思った。本当にいつも感謝感謝だ。
そして、そんな日々を送っていると想像以上のことが起こる。
自分が思い描く展望以上の未来を描いて教えてくれる人が現れる。
この人の視点から見る今の私のタイムラインの延長上には、
そんなビッグバンのようなことが起こっているのか。
もはや、現代アートが何かもわかっていない1年半前の私からは想像もつかない
遠いところに来てしまっていた。
何度、タイムラインを乗り換えたことだろう。
ちょっとずつ、タイムラインを乗り換え、また、次のレールに乗った。
そのレールは、望んでいたモノだったけれど、ちょっと怖くもある、
覚悟が必要だった。
ふわふわとなんとなく夢みたいに思い描いていた展望を
他人の言葉から発される。
当人の感覚めいたものが、言語化されて目の前に落ちてくる。
この現象を受け止めたとき、
あとはやるだけなのだ、と思った。
言語の世界、概念の世界、三次元に生きる私たちは、
言語化されてしまえば、ほぼ9割は終わっている。
残りの1割は、行動に移すだけなのだ。
何が課題なのか、
的確な問いが立てられた時点で9割は解決しているのと同じように。
自分で決めた道、思い込んでなんぼの人生。
時間という概念を外せば、いくらでも加速できる。
退職してから、たった1年半で、5年分くらいの視点の変化が起こった。
誰にでもできる、とても簡単に変われる近道。
STEP1 自己がどこにあるのかを知る。
自己というものは、自分の中にはなく。他者との関係の間に存在する。
他者の数だけ、自己が存在する。
家族に見せる自分、会社に見せる自分、友人に見せる自分・・・
ただ、当人が思う他者から見られた自己が
本当に他者からそのように見えているかは問題ではない。
他者との関わりで生まれる自己があるうちは、
「本当の自分」なるものは幻想で、
中心軸には何もなく「無」や「空」であることに気づく。
「色即是空 空即是色」
STEP2 他者との関係につくられた自我を壊す。
他者からどのように見られているか?という視点、
自我をとことん取り除いていく。
何事もまずは、「トル」ことをしなければ、本質を炙り出すことはできない。
STEP3 自己が中心に表出する
自我をとことんトルと、中央に残るものがある。
それが自己だ。
自我にばかり目を向けている間は、見えなかった自己が微かにふち取りはじめる。
STEP4 自己を中心に射影する
自己の存在に気づいたらそのまんま、かつてあった他者との関係の場所に自我を射影すればよい。
この時、どのような他者との間にも自己が射影されるので、他者目線に合わせた自我とは異なる。
他者の数だけ、存在した自我ではなくどの他者が見てもいつも同じ自我が生まれる。
#12「値段がついたものに価値はない」byデュシャン
価値交換を終えて出会ったこの言葉をずっと考えていた。
自分が生み出した物に値段をつけるとき、等価のモノと比較しそれに見合うか?を考える。つまり、市場に当てはめるので他者軸が入り込む。
作者が絶対価値で金額設定したとしても、購入者は必ずその金額に見合う他のモノとの比較が入り込む。作品の設定額30万円を見て、この金額なら旅行できるな、と言ったように。
デュシャンが「値段が付くモノに価値がない」と言い切るのは、他者軸の入り込んだ作品に価値はない、ということではないか?極端な話、「自分という人間に値段は付けろ」と言われても難しい。替えの効かない価値があると思うからだ。
とは言え、まだまだ貨幣流通する世界で生きる私にとって、値段をつけて生きていくことを楽しみたい!
そこで、値段自体に作品価値とは別の意味合いを持たせてはどうか?
今回は、2つの提案をデュシャンに提案してみたい。
1,購入者のスクリーニングとして設定する
オンラインサロンなどのコミュニティ形成のような場では、一種のスクリーニング機能として果たされている。毎月10万円支払うから出会える人、そこに人脈形成がある。勿論、魅力的なコンテンツあった上での話だが、そこに付帯するエネルギー交換の体験は、コンテンツ以上の価値となる。
2,マイナスの値段をつけて購入者に決定してもらう。
これは私の2023年の個展に向けて「価値交換の場所」第2弾アップデートとしての思いつきで生まれたものだ。
ギャラリーは通常無料で鑑賞するものだが、
「鑑賞料金として128円を作者からお渡しする」という取り組みだ。
そもそも、
人は、「与える」ことで、目に見えない何かを「受け取る」ことが多々ある。
人をもてなすことで、自分を満たすこともあるだろうし。
逆に「受け取る」ことで、何かを「与えている」ことも多々ある。
車なしの北海道田舎暮らし。丘道を歩いていると、車に乗ったご近所さんが拾って
くれることがある。乗車した時に「湯コマン温泉が最高でしたよ!」と雑談する。ご近所さんは「その情報もらっただけで乗せてよかったわ。」と感謝される。
「与える」「受け取る」に付帯する「見えないエネルギー交換」に焦点を合わせたとき、様々なお金や対価交換にまつわる現象の見え方が変わってくる。
(思えば、目の前の野菜を食べる時、生産者や物流業者を想像しなさいと言った教育もそれだったか。)
交換行為を通して、人との関わる機会を得て、自身の立ち位置を俯瞰できたり、現象に感情的になったりする。その出来事があって、また次のストーリーが生まれ続ける。
そうなると、値段に意味はないし、お金というツールのベクトルを反対に向けても同じではないか?と行き着いたのだ。
例えば、1枚の日本画作品の値段を下記のように設定し、購入者が選べるようにする。
ー128万円、ー12万8,000円、ー1万2,800円、ー1,280円 、ー128円、128円、1,280円、1万2,800円、12万8,000円、128万円
「128」という意味はなく、ただの誕生日だ。それが1桁ずつ自動的に繰り上がっていく。
購入者は、その値段にした理由を作者に説明する。例えば、この作品をお茶のペットボトルパッケージデザインにして、全国販売するので、「ー128万円」=128万円ください。と言われれば、現在無名の私にとっては大チャンスと捉え、お渡しすることだろう。
作品購入というイベントに伴う作者と購入者の価値交換の連鎖 を起こすのだ。それは循環とも言える。
既に色々なものが反転し続ける世界。
役に立たないことに重きを置かれる世界。
目に見えないものを大切にする世界。
実数の値段があるなら、虚数の値段もありでしょ??
と言うことで、この企画は実現するのか?
前もってこのnoteの発信を踏まえて、読んで頂いたあなたと一緒に思考体験をしてみたい。
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