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映画「悪は存在しない」の表現方法が素晴らしすぎる。観た後の行動注意。

 

 

 

映画「悪は存在しない」を観てきた。(以下、ネタバレあり)

 

 

導入:林を見上げた映像が長いこと続く。

 

先日、映画「ラストマイル」「オッペンハイマー」というハイテンポな映画を観たばかりだったので、このあまりにもゆったりなテンポに面食らった。

 

 

瞑想の世界へ誘われる。半分、寝ている。能楽を観た時も気持ちよく眠ったので、心地よい周波数とは、眠りに近い周波数なのだとわかっていると退屈で眠たくなるという捉え方をせずに済む。

 

 

 

 

 

起:主人公が淡々と薪を割る。川へ水を汲む。娘のお迎えを忘れ、探しに行く。

 

 

限りなくセリフが少なく、感じ取る映画なのだな、とお作法(文法)解釈が進む。

 

 

 

承:地元の人たちの暮らしの本質

 

 

芸能事務所のグランピング施設建設の説明会で、突如としてセリフが多くなり言語情報量が増える。

地元民と企業側の対立構造に見えながらも、移住してきた地元民の声のリアルさ、水の本質、シンプルさが伝わる。

 

「水は高いところから、低いところへ流れる。だから、上に住む者は下に住む者から、配慮するように言われることを理解しないといけない」

 

 

 

 

転:企業側の一人一人のストーリー

 

企業側がフォーカスされる。コンサル担当、社長、説明会を担当する板挟みの2人が退職を決意するなど。

 

一人一人の視点がわかりやすく、誰も悪人ではないことが観てとれる。

 

 

 

 

 

結:主人公と企業人2人が薪を割る。川へ水を汲む。娘のお迎えを忘れ、探しに行く。

 

主人公のルーティンを企業人2人とともにリフレインする。そして、娘が消える。

 

ラスト、主人公が「鹿に近づこうとする娘」を「止めようとする男性」を制止し気絶させる。

 

次の瞬間、娘が鼻血を出して死んでいる。その体を抱えて歩く主人公の息遣いが続き、終わる。

 

 

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初見:

突然のエンディングにどう受け取ってよいかわからず。困惑した。

 

主人公が男性を殺したのか?娘は死んだのか?

 

鹿親子へ、娘の代わりに男性を貢ぐということなのか?

 

 

娘は死んでいるように見えた。男性は死にかけているように見えた。

 

それでも、男性が立ち上がり歩こうとしてまた倒れる姿から、主人公が娘を運んだあとに助けにくることも考えられた。

 

鹿親子 →主人公と男性 → 死んだ娘 への展開があまりに早すぎてか、鹿親子は主人公の幻想だったのか?

 

とも思われた。しかし、男性が引き止めようとしているシーンがあることから、幻想ではなく現実だと受け取ることにした。

 

主人公が男性を気絶させる行為が野生の動物がそれを襲う姿に見えた。それはごくごく自然な現象のように映し出された。

 

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答えを求めて、思わずネット検索した。

 

 

 

すぐに人の色々な考察が出てきた。しかし、この考察を読んで、初見で自分が感じた感覚をもっと深く味わう反芻するチャンスだったのに、、、と

 

この行為をひどく悔いた。後悔先に立たず。

 

映画鑑賞をしに行っているはずなのに、理解ができないとその答えをすぐに求める。

 

他人の考察に納得すると、まるで自分の鑑賞した感想かのように錯覚する。

 

 

しかし、その言語を入力するまでに、出力は一度もしていないので、自分の出力(表現)はされていない。

 

 

もはや、映画と映画考察記事の「二重鑑賞」になっており、作品と自分の「純粋な鑑賞時間」はどこにもなくなっている。

 

自分がその作品をみて、どんな感覚を持ったか?言葉にできない気持ちになったのはなぜか?

 

 

ゆっくりと問うてみる時間が鑑賞の贅沢な時間のはず。

 

 

このように後から気づいたのも、最近、自分のアートに対する思想を言語説明する必要性を感じており、いくら言語化しても本質をつかない言葉。その時々で変化してしまうからだ。

 

 

この映画での表現方法を見て

 

「このような表現をわたしもしたいのだ」と気づいた。

 

 

 

 

・セリフ(言語表現)を最小限に。

 

・わかりやすいストーリー展開。

 

・鑑賞者へ問いの投げかけ方が、強烈。

 

 

 

 

これまで、如何に「相手に伝わるように、阿っていたか」が浮き彫りになった。

 

この「阿り」をぶっ飛ぼしてしまう。「鑑賞者を信じる」表現がここにあった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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